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 これは、私(松下怜之佑)が実際に体験した交通事故事件の始まりから終わりまでを綴った手記である。
 
1999年3月1日、月曜日。 
 3月13日、14日に日給1万円でアルバイトしないかと、父の取引先から電話。
 この話は、後日、ケガの為、応じられなくなる(後で休業損害として請求)。
 

1999年3月6日、土曜日。午後1時45分頃。 
 江戸川区中葛西7丁目1番地にある横断歩道を自転車に乗って横断中、よそ見をしていた加害者、O.K.運転の普通乗用車に自転車ごとはねられる。
 私(被害者:松下怜之佑)は救急車で森山病院に搬送される。森山病院で左肋骨骨折、全治4週間と診断される。固定具を付けられて、警視庁葛西警察署にタクシーで向かう。タクシーが振動するたびに激痛が走る。葛西署到着。調書を取られる。後日、診断書を提出するよう告げられる。

 

1999年3月8日、月曜日。 
 病院に向かう。この際、父に付添いを依頼(後日、通院付添費として請求)。タクシーで病院に向かう。降りるとき、領収書を請求(重要)。病院で診断書を受け取る。コピーを取らず、警察に提出(後日、後悔する)。加害者、O.K.夫妻、見舞いに自宅へ来る。以後、姿を見せず、日本火災海上保険株式会社(以下、日本火災と略す)に処理を一任。

 

1999年3月10日、水曜日。 
 事故以前に招待状が届いていた映画試写会に行く。普段、駅までは歩くが、ケガのため無理。バスを利用する(後日、交通費として請求)。

 

1999年3月13日、土曜日。 
 日本火災から、事故関係書類が送付される。それ以前に日本火災本店損害調査部第三課(所属を知ったのは8月19日の交通事故紛争処理センターにて)のE.I.氏より最初のコンタクト。後日、「直井」と名乗る人物がE.I.氏と代わると電話(後日、同保険会社担当者本店損害調査部第三課賠償主任・直井敏之氏と判明)。
 この日、アルバイトに応えることができなかった。

 

1999年3月14日、日曜日。 
 この日も、アルバイトに応えることができなかった。

 

1999年3月15日、月曜日。 
 通院3日目。まだ、激痛が走る。父に付き添ってもらって、タクシーで病院へ。今回から、病院の請求書が日本火災に送付されることになる。

 

1999年3月29日、月曜日。 
 通院4日目。「治ったことにしましょう」という担当医の一言で治療終了。しかし、痛み止めのお蔭で、痛みが無かっただけ。薬が切れた後、2週間は痛みが続いた(アドバイス:先生が治ったと言っても、もう一度、通院したいと伝えよう)。

 

1999年4月13日、火曜日。 
 日本火災から、交通費(7310円)が振り込まれる。

 

1999年4月23日、金曜日。 
 損害賠償計算書が送付される。傷害慰謝料額(32800円)に唖然。
 さらに、上記金額を「不変」と断言する担当者、直井敏之氏の態度に茫然。
 法律を勉強している者としては、「不変」という言葉にカチンときた。「自賠責保険の基準」にそれほどの強制力があるのだろうか。しかも、「不変」と断じるからには、担当者、直井敏之氏には、私と話し合うつもりもないらしい。なぜなら、「不変」と書面にして、よこす程だからだ。
 また、4100円(定額)×4日(通院)×2倍(最大認定)という、算定計算に至っては、もはや茫然自失。「俺は、通院した日だけ激痛に苦しんだのか!」と叫びたくなる。もちろん、このような賠償額では納得出来ないと告げる。すると、電話口でも判るほど態度を豹変させて、「自賠責保険の基準で算定したので不変です」と言い、さっさと電話を切られてしまった。

 

1999年4月24日、土曜日。 
 日本火災が依頼した診断書の作成期日がこの日。

 

1999年4月28日、水曜日。 
 3月8日、3月15日に父に付き添ってもらったので、通院付添費として10000円(5000円×2日)を請求する。

 

1999年5月10日、月曜日。 
 日本火災から回答。通院付添費は、医師の診断書での証明が必要であるが、日本火災が取り寄せた診断書にはそのような記載が無いので、32800円の傷害慰謝料で納得してほしいとのこと。

 

1999年5月13日、木曜日。 
 3月13日と14日に、日給1万円というアルバイトの紹介を受けた件で、これを逸失利益として請求(1万円×2日分=2万円)。

 

1999年6月1日、火曜日。 
 日本火災からの回答。毎回のことながら、担当者である直井氏の字は汚く読みづらい。少しは、読んでもらえるよう丁寧に書いたらどうだろうと思う。
 通院付添費は1日2000円(自賠責基準)であると通知。また、診断書への記述と付添人の自認書が必要とのこと。また、アルバイトの件は「休業損害」で処理したいとの回答。

 

1999年6月9日、水曜日。 
 日本火災が所持する診断書原本を送付するよう求める。

 

1999年6月14日、月曜日。 
 交通事故紛争処理センターに電話で相談日の予約。10月13日午後1時に予約される。

 

1999年6月15日、火曜日。 
 日本火災から診断書原本が送付される。

 

1999年6月16日、水曜日。 
 日本火災が送付してきた診断書の原本に記載されていない事項があるため、森山病院に行き、医師に診断書訂正を依頼。

 

1999年6月26日、土曜日。 
 日本火災に現在、私の事故を処理しているのが、自賠責保険か任意保険かを書面で知らせるよう申し入れる。

 

1999年6月30日、水曜日。

  以前、問い合わせていた加害者O.K.の刑事処分が判明。東京地方検察庁交通部より郵便にて通知される。加害者O.K.は平成11年5月14日に東京簡易裁判所において略式命令起訴され、業務上過失傷害罪で有罪。罰金20万円に処せられたことが判明する。

 

1999年7月1日、木曜日。 
 日本火災から「自動車損害賠償責任保険です」との回答。

 

1999年7月8日、木曜日。 
 交通事故紛争処理センターから電話。キャンセルが出たので、7月13日午前10時に予約を変更してもらう。

 

1999年7月13日、火曜日。 
 新宿にある交通事故紛争処理センターを訪問。弁護士の落合光雄氏が担当。裁判所基準で慰謝料の計算をしてくれる。また、通院付添費の裁判所基準額が親類や知人の場合、1日当たり3000円だと初めて知る。8月19日、午後2時を次回期日として1回目の相談は終了。次回からは三文判でいいから認め印を持参するよう指示を受ける。

 

1999年7月20日、火曜日。 
 父に通院付添いの自認書を書いてもらう。

 

1999年7月29日、木曜日。 
 アルバイト予定先だった有限会社ケイエムプラス代表取締役である熊寿氏より私に対して1999年3月13日と14日の2日間、日当1万円での仕事を紹介したという趣旨の自認書を作成してもらう。

 

1999年8月3日、火曜日。 
 日本火災から配達証明郵便にて診断書原本と付添看護自認書の提出要求。

 

1999年8月5日、木曜日。 
 日本火災へ修正済の診断書原本と付添看護自認書(通院付添用)、アルバイト予定先の自認書を送る。

 

1999年8月19日、木曜日。 
 交通事故紛争処理センターで日本火災の直井敏之氏とE.I.氏と初めて対面する。担当弁護士である落合光雄氏から日本火災に対して、慰謝料は20万円(裁判所基準、重傷通院1ヵ月25万円から、24日分を算出)、アルバイトは休業損害として2万円、通院付添費は6000円(3000円×2日)で決着しませんかと提案。しかし、日本火災は大蔵省が認めた「基準」での決着にこだわったが、8日分の慰謝料から14日分の慰謝料にしてはどうかと提案。被害者としては治療日数24日全てを保障してもらいたい。
 それにしても、保険会社を監督するのは1997年から「金融監督庁」、1998年からは「金融再生委員会」になっている。いつまでも「大蔵省基準」を振りかざすのはナンセンスだと思うが……。大体、汚職&失態の大蔵省の言うことに従う国民なんて、ほとんどいないだろう。
 また、アルバイト予定先の自認書は日本火災の書式とは異なるので書き直して欲しいと言われる。日本火災の書式は書き方がよく分からないのでE.I.氏に尋ねる。書き方の例くらい付けて欲しい。
 結局、決着は付かず、次回期日は10月12日となった。

 

1999年9月30日、木曜日。 
 アルバイト予定先だった有限会社ケイエムプラスに、作成依頼をした休業損害証明書と雇用契約証明書が作成されたのがこの日。

 

1999年10月5日、火曜日。 
 休業損害証明書と雇用契約証明書を日本火災に郵送する。

 

1999年10月12日、火曜日。 
 交通事故紛争処理センター3回目。今回、日本火災側はE.I.氏1人だった。日本火災の申し出は、通院付添い&休業損害は弁護士、落合氏の提案に従うが、慰謝料については20万円ではなく、14万円でどうかというものだった。14万という数字は、裁判所基準・軽傷通院1ヵ月17万円の24日分13万6000円あたりから出たのではないかと落合氏は説明。「14万でどうですか?」と落合氏に尋ねられたが、納得できず。
 すると、落合氏は私に一時席を外すように指示。E.I.氏と2人で話し合ったのち、E.I.氏と入れ代わるように言われる。今度はE.I.氏が席を外して、落合氏と私で話し合う。話し合いの内容は、重傷(手術・入院・ギプス)と軽傷(ムチウチ等)の間をとって算出された慰謝料で決着してはどうかというものだった。
 つまり、重傷慰謝料24日分20万円と軽傷慰謝料24日分13万6000円の中間である16万8000円を慰謝料とする、ということだ。
 私としては信頼している弁護士、落合氏の提案であったし、納得いく譲歩案でもあったので受け入れた。日本火災側も不本意ではあったようだが、受け入れてくれた。こうして、慰謝料については双方譲歩することによって円満に解決したのだった。
 さて、最後に免責証書の作成で一件落着だが、私はハンコを忘れたので、後日、日本火災に郵送することとなった。免責証書の立会人には、見事な大岡裁きで仲裁を成立させた落合弁護士がなってくださった。

 

1999年10月13日、水曜日。 
 ハンコを押した免責証書4枚のうち最後の1枚を控えとして取り、残り3枚を日本火災に郵送する。

 

 

 事件発生が1999年3月6日、民事解決が同年10月12日となり、事件解決まで7ヵ月かかった。今回の事件で私はいろいろ勉強させてもらった。命があったのは、私が何か為すべき仕事がこの世にあるからだと思う。拾った命を大切にしたい。

 

《追記》日本火災海上保険株式会社は2001年4月の合併により日本興亜損害保険株式会社となった。

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